
「和を以って尊しと為す。」これは飛鳥時代の聖徳太子の制定した憲法17条の中の冒頭の条文であるが
憲法17条は日本で制定された最初の成文法である。
成立年代には諸説があるが推古天皇12年(西暦604)とされている。
内容の中で目につくものは3条文あり昔も今も同じである。
聖徳太子の制定した17条の憲法はその後制定された律令、大日本帝国憲法、日本国憲法や格式などで失効しておらず現在でも有効状態といえる。
(ウィキペディアより引用)
聖徳太子は西暦571年第31代用明天皇の第2子として穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に生まれた。穴穂部間人皇女はひめみこというのでやはり第29代欽明天皇の息女である。当時の天皇は皇女より生まれた皇子が天皇になるのが通例であり媛女や郎女より生まれたものは天皇にはなれなかった。用明天皇は穴穂部間人皇女の異母兄にあたる。
聖徳太子は天皇になるべきの十分の資格を持っていたがならなかった、あるいはなれなかった。おそらくは今の政治と同じで原因はその二つであろう。
当時の中国、朝鮮半島、日本の状況はどうであったのか
隋による中国の統一に伴う周辺部への圧迫は高句麗への圧迫になり、朝鮮半島を不安定にさせた。新羅は6C中ごろには国政を整備して高句麗の圧力をはねのけ564年には北斉、568年には南朝の陳に朝貢して中国との結びつきを強めた。百済は仏教を日本に伝えることにより関係を強化し日本は仏教の教化により天皇家による中央集権体制の確立を図った。故地の神(八百万の神)を信仰する物部守屋は天皇・蘇我連合軍に敗れ部族国家集合体より奈良時代へつながる中央集権体制へ移行することになった。6Cに入って朝鮮半島では新羅による鉄器の生産が盛んになりこれが百済を滅亡させそして唐を朝鮮半島から駆逐しまた高句麗の南半分を領有させることとなった。任那の日本府は当時その鉄器の収集基地であったといわれる。物部は姓の職業集団であり製鉄技術並びに製造の独占は蘇我、天皇家にとってはゆゆしき危機であったろう。
さて和ということはどういう意味を持っているのであろうか。角川書店の漢和中辞典によると形声文字であり「禾」kaが音を表し加える意の語源(加)より来ている。人の声に応じて合わせることを原義とする。ひいては心を合わせ合わせて和らぐことの意である。
32代 崇峻天皇は蘇我氏に暗殺され、そして蘇我氏による政治の独占化の中で皆さん仲良くしましょうとはなかなか味のある意味合いである。 聖徳太子の真意は「意見はいろいろあるが小異を捨て大同に基きこの国難に対応しましょう」ということではないかと思う。
今の森林組合を取り巻く環境は大変厳しいことはだれでも認識していると思う。第1に材価の低迷である。第94号の県森連の木材市況をみるとヒノキ立木一本あたり10000円になるのは至難の業である。丸太の末口径26cmから28Cm位ないと採本数4本は採れない。根丸太が6500円二番丸太2500円 3番4番丸太が合計1000円(コメ焼酎4合瓶1本)というけいさんになるが?私の区域の地味の肥えたところでよく60年生のヒノキが目通り周囲2尺4寸(72cm強)といわれる。そして1番丸太の末口径は6寸である。よってこの時に間伐を実行しその後30年ほど経過しなければとても上記の1本10000円にはならない。凡そ90から100年かけて700本の樹よりいくらの収入が上がるだろうか?しかも700本の樹の中には曲がっているものもあれば二股の樹 キツツキに穴をあけられているものもある。そうはいっても6m 7mの長尺材も採れるので収入の足しになる。今目通り直径35から40cmのもので4m材1本1万円である。1本1万円するものは年数がもう少しかかる。今家の記録の中では昭和6年に植林したものが少し残っている。 その後は昭和12年に植林したものがある。目通り直径21から24cmになっていると思うが林道がなく集材距離 500mであるので伐採すれば赤字になりそうである。とても標高350mの山に再造林は不可能である。
第2に林業政策が変わることであり、施業計画から経営計画に変わる。つまり施業計画の政策ができた時は材木の値段が高く計画的施業ができる経営状況にあった。現在は林業不況でありとても計画的施業ができる経営状況にない。 このことは行政も十分把握しており、よってこの状況にあってもCO2削減計画(木材自給率50%以上)に協力できる企業体に助成金を与え経営計画を成立させるのである。経営計画の樹立は林道 作業道の開設とその路網を生かした高性能機械の導入と利用である。
林道 作業道 という路網の開設整備は林業関係者ならびにその地域に住む住民の理解がなければならない。そのためには組合の役員は意思を統一し一致団結して組合員、地域 林業振興のために活動しなければならないと思う。
まことに聖徳太子のご主旨のごとくであり、ただ表面上仲良く事なかれでな く本来の目的のために論を尽くして大同に基き一致団結して事にあたらねばならないと思う。森林組合は今までの森林の事業、管理だけでなくその地域に住む方々の意思の取りまとめという新しい仕事(責務)が科せられこれを確実に遂行することがいきのこる道であるとおもうが・・・・・・・?
さて第1回の県隋使は推古天皇8年西暦600年に派遣された。その時の隋書「東夷伝」(倭国伝)には倭王とありヤマタイコクと記述があるが私は 倭 という字が大嫌いである。倭は音読みだと wa あるいは i と読む。「委」の意味は禾と女でなよなよしたことを意味している。今の女性は肉食系と言われ逞しい、或いは猛々しい。(ただしうちの組合の女性職員は除く) 倭国というのは中国が日本に付けた国名であるが日本にとっては縁起の良いものではない。東夷伝の中の「夷」という意味は弓と矢を持った人の意であるがみすぼらしい体が小さいと意味があり縁起の良い字ではない。民族としてはツングース系であり森林地帯の狩猟民族である。東夷 南蛮 西戎 北狄これらは中国の中華思想が根源にある。華は美しい花を飾った人を表し夏もまた夏草が茂れるがごとく冠に装飾をたくさんつけた人を意味する。蛮は南方の民族で蛇を神聖視するからつけたというがあえて虫を付けたのは蔑視のあらわれである。当時ワニは揚子江のあたりにいたから蛇でなく鰐ではないかと思うが。因幡の白ウサギがうそを言って皮をむいたのは鰐といわれるがこれは鮫である。昔は口が大きいものはワニと言ったらしい。口が大きければワニもサメも区別がなかったみたいだ。
西戎は西の異民族で戎は西南の異民族であり犬を意味する。北狄の狄もやはり犬であるが闇夜に光る眼の狼を表している。
後の代 漢民族である宋を滅ぼした蒙古 「元」は漢民族を重用せず漢民族を蛮と呼んだ。
参考文献:広辞苑。 角川書店 漢和中辞典 。ウイキペデア。